Surrealism:2 運動の拡大

このリード文は作例ばかりで、「シュルレアリスム」と「絵画」の関係、あるいはその技法といったところの記述が何もないのが大変問題です。作品の比較論にしても多少ずれているように感じますし、出典もありません。

一応翻訳しておきます(エルンストとキリコの作例解説は上述の理由により省略させていただきます)が、編集時点では作例を織り交ぜつつも、シュルレアリスム絵画をめぐる主要な議論、それから技法の列挙というかたちで対応したいと思っています。

翻訳作業を進める(といっても遅々としたものですが)にあたって、カタログ的な(まさに辞書的な)編集を意識した方がいいのかなと感じます。この点については「第一宣言」を読み直して思うところがありましたので、後日、作業仮説として提示することとします。

      • 以下、訳文

1920年代中頃の運動は、シュルレアリストらによるカフェでのデッサン共作やシュルレアリスム理論の彫琢、それに自動デッサンなどの様々な技法の探究などに特徴づけられる。ブルトンは当初、自動現象になじみにくいのではないかという理由から、視覚芸術がシュルレアリスム運動における有効性に疑念を抱いていた。この疑念は、フロッタージュやデカルコマニーといった技法の発見により克服される。

すぐにより多くの芸術家―ジョルジョ・デ・キリコマックス・エルンストジョアン・ミロ、フランシス・ピカビア、イヴ・タンギーサルヴァドール・ドール、ルイス・ブニュエル、アルベルト・ジャコメッティ、ヴァランティーヌ・ユゴー、メレット・オッペンハイム、トワイヤン、そして第二次世界大戦後にはエンリコ・ドナーティ―が運動に参画するようになる。ブルトンパブロ・ピカソマルセル・デュシャンを賞賛し、運動への参加を促したが、彼らは運動の周辺に留まった。またより多くの作家たち―ダダの活動家だったトリスタン・ツァラルネ・シャール、ジョルジュ・サドゥール―も運動に参画している。

1925年にはブリュッセルに独立したシュルレアリスト・グループが形成される。同グループには、E・L・T・メザンス(音楽家・詩人・画家)、ルネ・マグリット(画家・作家)、ポール・ヌジェ、マルセル・ルコント、アンドレ・スーリらが、1927年には作家のルイ・スキュトネールが参画している。ブリュッセル・グループはパリ・グループと通じており、1927年にはカミーユ・ゴーマンとマグリットがパリを訪れ、ブルトンのサークルにしばしば参加している。ダダやキュビスムカンディンスキーの抽象主義、表現主義後期印象主義をルーツとするこれらの芸術家たちはまた、ヒエロニムス・ボッシュのような古の血統、原始的で素朴な芸術にも通じている。

1923年のアンドレ・マッソンの自動デッサンは、それらが無意識の思考を反映するものとして、シュルレアリスムにおける視覚芸術の受容とダダからの隔絶を示すものとして取り上げられる。今ひとつの例としてはジャコメッティの1925年の「トルソー」が挙げられるが、この作品はジャコメッティの形態の単純化への志向と、ギリシャ・ローマ古典期以前の彫像からの影響をを示している。

マックス・エルンストの作例 略)

ジョルジョ・デ・キリコの作例 略)

1924年にミロとマッソンはシュルレアリスムを絵画に適用し、翌年のピエール画廊での『シュルレアリスム絵画展』(マッソン、マン・レイパウル・クレー、ミロらが参加)の開催につながっていく。同展ではシュルレアリスムが視覚芸術分野においても適用可能(当初はその可能性について議論があった)であることが確認され、また、フォトモンタージュのようなダダにおける技法も利用されている。翌1926年3月26日にはマン・レイの展示を皮切りにシュルレアリスト画廊が開廊。1928年にはブルトンが「シュルレアリスムと絵画」を出版し、1960年代まで改訂を続けている。

1920年代に開催された主な展示

・『シュルレアリスム絵画』展(1925)ーパリ、ピエール画廊で開催された最初のシュルレアリスムにおける絵画展。マッソン、マン・レイパウル・クレー、ミロらの作品が展示されている。
シュルレアリスト画廊における展示(1926)ーこの年の3月に開廊したシュルレアリスト画廊における展示。マン・レイの作品とオセアニアの未開地域におけるオブジェが展示された。

      • 訳文終わり